昭和42年6月27日 朝の御理解


 おかげを受けたら神心となりて、それを人に伝えていくのが、神への御礼ぞ、それが神になるのぞと仰っておられます。おかげを受けたらそれを神心となりて人に伝えていくのが神への御礼ぞ。それが神になるのぞと。
おかげを受けた。そしてその後が大事であると言うことが分かりますですね。何故って自分の心が神に向かうのを信心というのじゃと仰せられる。自分の心が一歩一歩神様へ近づいていくのが神への御礼ぞと仰る。この方の事を生神生神と言うけれども、みんなもそのようなおかげを受けられると、生神とは神がここに生まれるということであって、この方がおかげの受け始め、みんなもこの様なおかげが受けられるんだと。いわゆる神の氏子としての自覚を促しておられる。みんな天地の親神様と同じ、いわゆる、天神の親神様なら子神であり、大神霊であるなら小神霊であり、大天地であるなら小天地なのだ、私共は。同じものなのだ。この世に私共が生を受けると同時にもう生神様としての値打ちというものを私共は頂いておるのだけれども、私共の段々歳をとるに従って、それに我情がつき我欲がつき、本当のあの私はいつも思うんですけれども、あの赤ちゃんの目の綺麗な事はね、澄みきっておる。もう本当に神様の目と言うのは、あんなものじゃなかろうかと思う。それが段々心が濁ってくるに従ってから、まあ目玉も濁ってくるというわけでもないでしょうけれどもですね、澄みきったものがなくなる。信心とはそう言うようなですね、心に取り組んでそう言うような心の清まりを願う。清まっていくに従って、私共の心は神様に近づいていけれる。みんなも生神様になれるんだ。
 生神様と言うのは、心の中にいつも有り難い、生神とはここに神が生まれるということであって、とこう仰る。心の中に有り難いなぁ、真に有り難いという心が生まれた時には、もう生神様がここへ現れてござる時なんだ。そういう心を育てていくのが信心なんです。
 ところがそのおかげを頂くということが信心と言うように、十年経っても二十年経ってもそこから脱皮出来ない人がある。
おかげを受けたら神心となりて、人へ伝えていくのが神への御礼ぞと、それが神になるのぞと。おかげを受けると言うことはですね、皆さんが一心に例えば信心は分からなくても、金光様お願い致します、親先生お願い致しますという気になりゃ、受けられるんですよ。それは不思議なおかげが頂かれるんですよ。
 ところがそのおかげを受けてです、神心となりてというところが難しいんですよ。又はそれを人へ伝えていくと言うことが難しいんですよ。それから先がです、神心となりて、人に伝えていくのだ。その自分の心の喜びというものが限りなく喜びがこう出ておらなければ、人へは伝えられんのです。自分に有り難いもなんもないものがです、如何に人に伝えたところで、人へ伝わっていくはずもないし、それでは神になれない。いわゆる神心となりてと言うところが大事なんです。神心となりて人に伝えていくのが神への御礼と。
 昨日こんな事があった。ご承知にように、関さん達親子がもうそうですね、四時過ぎには出られるんでしょうね、もうここには御祈念前にゃいつも着かれるのですから、昨日もやっぱり早うから参って、私が御祈念の座につく前にもうお参りになっておられた。それで昨日は昼頃まで親子の者が一生懸命、丁度十二時、私が下がる迄御用を頂いてお掃除の御用なんかなさっておられたらしい。それもやはり一心におすがりする事のあっての事でございますけれども、一心におすがりする事のあっての事でございますけれども、一心にすがらんならんから、そういう御用を頂いておるだけではないものがある。いわゆる自分の心が段々信心になっていく。神心とまではいかんにしても、その一生懸命信心になっていくと、そういう風に自ずとじっとしておらなければおれないものが生まれてくる。娘さんのひろこさんのお友達で大学を卒業して就職のおかげを頂かなければならない特別の関係があるもんですから、親子でその方の事を一生懸命お願いしている。ところが若い者ですから、信心とはもう年寄りがするものだと思っておる。だからおかあさんが信心をされるのは合点が行くけれども、ひろこさん達のような若い人が信心するのは僕には分からないというのがその方の言い分である。
 成る程信心とはもう年寄りがするもんのように思うておる。そんなこつじゃない。それこそ子供の時から青年期に入ったら、いよいよその信心の基礎ぐらい出来る、というようにあるのがお道の信心の在り方なんですけれども、一般では信心というものをそういう風に考えておる。それでもその人が切実な願いを持っておられるますから、先日みえた時に、丁度田主丸の共励会の日ですから、二十二日の日です。あのお湿りの中に強引に引っ張ってからお参りしてみえてたらしい。丁度若先生が奉仕をしておった。それが名前が大野勝彦という方なんです。大坪勝彦と野と坪が違うだけ、僕と同じような名前、前からずっとお初穂整理をさしてもらう時にそのお初穂袋に大野勝彦というのがあるが又お届け帳についておるから、どなたじゃろうかとこう思うとったらああたでしたかというようなことからですね、そのまぁいろいろ話して若い者は若い者同士というわけでその信心が少し分かられたらしい感じであった。まぁ人間悲しいときの神頼みもありましてから、神様の力の字のも言わなかった人がです、さぁ御神米を頂いていこうということになり、いよいよ試験がというときには、とにかくお願いをしてもらってです、そしてもし合格したら、自分もお礼参りをすると言うようなところまでになり、今日もその就職の試験を受けられるところが、各大学のとにかく優等生ばかりを集めてその採用する会社らしいですね。ですから自分はまぁ優等生じゃないからまぁそのある特別な人の紹介で試験が受けられるようになったのだけれども、ダメだろうと言うわけで、そのもしいけなかったらと言うので、別の会社に受験されてからそこはおかげで通っておられた。私昨日がその受験の日であると言ったような事は知らなかった。それでここで又お届けをされましたらですね、その大野勝彦、大野勝彦ということを二言頂くのです、お届けに。
 それであの、私どういう事じゃろかと思うたら、その大野勝彦さんに私お目にかかった事ないものですから、心願にそのいわゆる合楽の方を向いてという感じですね、向いて何か一心にこうすがっておるという御心眼を頂いた。はぁこりゃ大野勝彦さんが何かお願いしとられとるじゃなと思うて、私はここに大野勝彦、大野勝彦と関さんのお届けとそれから今、私にすがっておられるその事もお届けさしてふたつここに書いた。で今日は大野勝彦さんというのが、今こんなじゃったから、ふたつこうして重ねてお届けしとると言ったら、まぁ先生今日が試験なんですとこう言う。今日の九時からです、そこでその大野さんが山口県の方ですから、一生懸命やっぱりすがっておられる。で、昨日夕方合格したと言う電話であった。詳しいことは分からんけれども、まぁおかげで出来たからおかあさんに合楽の金光様に御礼にでてくれと言うその電話であった。
 というようにです、おかげを受けるということはです、信心のしの字も分からなくてもです、御神米を頂いて生きなさい、ハァ御神米をそして、悲しい時の神だのみであっても、一心をこちらへ向けてすがればおかげが受けられるという事実は、これは皆さん沢山の周囲にもあることだと思うんですよね。ですけどもですね、それはおかげを受けて神心となりてと言うところがでけんのですよ。そこでなら皆さんの場合、ならもう長年信心しとれるが、そこんところが出来夜かという事を、いっちょ思うてみなきゃいけません。何故かと言うとですね、それから先が人間の幸せ、神様の喜んで下さる世界。神も氏子も喜び合えるところのおかげの世界というものがある。あの世この世を通して助かっていけれる道が、そこから開けてくるのですよ。一心にすがっておかげを頂いたということだけではなんもならんのですよ。まぁ言葉を変えるなら、それは神様に借金が出来たというようなものなんです。ただ一生懸命お願いしておかげを受けたと言うのは、ですからそれから先が難しい。
 昨日も土居の共励会で昨日善導寺の正義さんのところでございました。けれども、私は本当に有り難いと思いますね、もう昨日から土居のあたりは田植えが始まってるんです。それでもやっぱりみんな集まっておられます。特に共励部長に今度おかげを頂きました大和さんなんか、もう共励会と言ったらもうそれ以来どこの共励会でもおかげ頂いておる。あちらもやっぱり二十六日か、二十七日からか田植えが始まるんだそうですけれども奥さんに共励会が二十七日まではかかるから、俺んところは二十八日から田植えをすると言うようなひとつ意気込みである。お百姓さんが田植えをのばすというのです。今日は久留米の共励会で然も昼だから、田植えの方は一日のばすと云うてそのまぁ主人がもうしておりますというて、家内が( )よる、というくらいないわば打ち込み、田植えのことは神様が知ってござるから、今日はいかんでもと、いいわけは出来るのだけれども、信心というのは、そこんにきがですね、私が言う、我心が神に向かうと言う神心とはなり手と言う。そう言うことはです、そういうちったあの人はぼうけちゃござらんじゃろうかと例えば信心の無か者なら言うくらいなところを通らなければ分からんです。忙しかこつの神様は知っちゃるからもう又、ひまん時は参ろうと。成る程それでもおかげは受けられるです。けれども、私は我心が神に向かうというような信心にはなれないと思う。自分を中心にした信心。神様を中心にした信心。そこから違いが生まれてくるのですよ。
 昨日福岡の文男先生がいつもやって来ますが、一緒に富永さんがおかげ頂いた。最近共励会に北野にもおかげ頂いた、二十四日の。それで昨日もおかげ頂いた。みんながここでお届けされるのに、昨日は富永さんがみえて頂いたから、もう本当に今までかってないような生き生きした共励が出来ました。昨日はもう田植えの最中でもあるし、もう早く帰ってくるだろうと思ったけれど、十一時になっても十一時半になっても皆さん帰ってみえません。何がそげん弾みござるじゃろかと思いよったら、皆さんがここでお届けされる事でした。富永さんがみえてから、一生懸命その信心話をなさるから、まぁそのつい時間を過ごした。とこう言われる訳なんである。今富永さん、あるひとつの難儀なもう人生の曲がり角というか、節と言われるくらいな大きな難儀な問題を今かかえておられる。ですから一生懸命にすがらなきゃおられないのである。すがればどういう事になるかというと、一生懸命すがっておると神様を身近に感ずる事が出来るのである。自ずと神心が湧いてくるのである。これを人に聞いてもらわねばおられんのである。
 そこなんです、一生懸命ならせて頂く。自分の都合なんか言うちゃおられん。いわゆる神様を中心にしたところの信心にならせて頂いたら、神様がですね、身近にこれに宿って下さるようにです、神様を身近に感ずることが出来る。その喜びを人に聞いてもらわなければおられない。さ、そこで皆さんもです、その辺のところも体験が出来ると思う。何か難儀なことがあって一生懸命なっておる時には、さぁどこの共励会でもここの共励会でも朝参り、夜参り、一生懸命。だからここまでは出来る。皆さん方は出来ておられるとこう思うんです。
ところがですよ。富永さんなら富永さんがその難儀な問題をおかげを受けて又平穏無事な時になった時にです、私は段々信心が遠うなっていくような事になったらいけんのですよね。ですからそこんにきが難しい事が分かるでしょうが。私は昨日もみんながお参りをしておるのに、それこそ土居の繁雄さん達なんかはもう親子夫婦でおかげ頂いて、勇さん達も親子でおかげを受けておる、にもかかわらず、久富組がおりませんもん。今日はみつかさんなどうじゃったねと言うたら、今日は参って来とりません。それこそ百姓もしとらんのに、お参りが出来とらん。どうしてや、と私が言うたら、里からおっかさんの来ちゃるけんで、ち、曽根から来ちゃります。里のおっかさんも本郷の御信者さんです。そんならなおさらのこと。今日はこうして善導寺の方で共励会があるから、正義さんとこで共励があるから、おかあさん、またとない機会じゃけん、さぁうちの婆しゃんも曽根の婆しゃんも一緒に自動車に私が乗せていこう。さぁ共励会にいこうと云うてもよかとこじゃないかと私が言うんです。ついお前はこの頃じゃなかったか。今度本当におかげをよう頂かなかったら、久富組は夜逃げせんならんというてごたる大変なお願いをしたばっかりじゃなかったか。そしてそれを見事におかげを受けたじゃないか、結局おかげの実感なのだ。おかげと言よるばってん、ただおかげというのは、このくらいばっかり思うておるか、こんなに思うておるかもう心からおかげを頂かなければ出来る事じゃなかったと思いこめれるかどうかという事なんです、信心は。
 というて、まあみんなに私話した事なんですけれどもね、どうですか、例えば富永さんなら富永さんがです、今難儀な問題を抱えておるから、一生懸命なれる。一生懸命なれるから、神様を身近に頂くことが出来る。その神様を人にも聞いてもらわなければおられないと言うようなです、信心がです、おかげを受けた平穏無事な時でも、その神様がそれにいつも頂き通しに頂けておれるような信心を頂いていくと言うことが一番大事な事であると言うことを私は今日、皆さんに言おうとしておるとこなんです。
 例えば大野勝彦さんじゃないけれども、信心のしの字もない。それは関さん達親子の一心に信心もあるけれども、そのお取次を神様がして下さるのだけれども、本人大野勝彦の唯信心も分からない、金光様を唱える道も分からない人が神様とこうすがっておる。それを取り次ぎしようと私に云うておられるものを感ずるでしょうが、そこにはもうおかげがとにかく、大変な難関だそうですが、それをおかげを受けるということになっているでしょうが、優等生ばかりの中にあって、自分はそうでもないのに、おかげを受けておると、言うならおかげがそこにあるでしょうが。だからそのおかげを受けたら神心となりて、というところをです、日頃信心の稽古をしとかにゃいけん。その神心となりて人に伝えていけれるようなものがです、平穏無事の中にあっても、日々の中にです、なんでもない世の中この様な神様のおかげを頂いて、この様に間違いのない神様というものを表していけれるだけの信心が如何に、必要であるかということが分かります。
命がけ、いうならばもう家にも財産とかけていったような事でも、願っておかげを頂いてもです、その信心を頂いていないと、いわゆる自分だけが中心の信心になるとそういう事になりかねないのです。そんなら神様もがっかりでしょう。
 それでは実をいうたら馬鹿らしいんです。人に伝えていくのが、例えていうならばです、今度はとてもどげなこつあったっちゃ、今度頂いとるこのおかげは、この共励会に行って話さなければ、みんなに聞いてもらわなければです、もうおられないというものがあったら、とてもとても私は、例えばどげな大事な人が若し来てござったっちゃ、今日はちょっとこんな訳でというて行かにゃおられんのじゃなかろうかと私は思うです。
 里の場合だったら、信心もあるし、又今日は共励会であることもよう分かっとるとじゃから、さぁあなたも一緒にというだけではない。それこそつい最近頂いたばっかりの生々しいそうしたおかげです。人に伝えて聞いてもらわなければおられない。というものでなからなければ、私はほんなこつじゃなかろうように思うですがね。それがもうなんですかね、ひとつこう財産なら財産の上にあぐらをかいてしまう。人間そげな風になりがちですから、そこんところのおかげを頂く迄にしっかりおかげを受けたことを人に伝えていけれる神心というものを、本当につくっていく信心。どのような場合にでも、どのような中にでも、神様を身近に感じれれるところの信心。そしてそれを人に伝えなければおられないというような信心。そこに神になるのぞという。人へ実意丁寧に伝えていくのが神になるのぞと迄教えられるのでございますから、神心となりてというところを大事にして、果たしておかげは受けよるが、自分の心は神心に向かっていきよるだろうか、というところを反省検討さしてもろうて信心を進めていかなければならんと思うですね。                          どうぞ